2010年11月07日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ、「イギリス海軍潜水艦アップホルダー」


「アップホルダー」イギリス海軍潜水艦

アップホルダーは第2次世界大戦時のイギリス海軍の潜水艦として、最高の戦果を挙げました。ウォンクリン艦長に率いられたアップホルダーは地中海で活躍し、ドイツ軍の補給船に痛撃を加え続けたのです。

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*イギリス海軍の潜水艦建造

19世紀末から20世紀初めにかけて、イギリス海軍は世界の海軍をリードしていたが、潜水艦の導入は遅れていました。しかし第1次世界大戦直前から潜水艦の大量建造を開始し、終戦時には世界最多の潜水艦保有数を誇るまでになったのです。

イギリス海軍内部では第1次世界大戦後、潜水艦廃止も議論されていましたが、1930年にロンドン海軍軍縮条約が締結されると、状況が一変しました。この条約の結果、潜水艦の数を揃えるために、従来より小型の潜水艦を建造する必要に迫られたイギリスは、自国の近海などで使用する為に、小型の沿岸用潜水艦の計画を立てました。

これが、艦名が全てUを頭文字とするためU型と呼ばれ、当初は武装を持たない訓練用として計画された潜水艦です。


*マルタ島の潜水艦部隊

U型の特徴は、イギリスの潜水艦として初めてディーゼルエンジンで発電してモーターを回すディーゼル電気推進を採用したことです。この推進機構によって機関のコントロールが容易になりました。

外見上の特徴は、小型の船体に多数の魚雷発射管を搭載するため、前期型には艦首上面に外部装着式の発射管2門が装備されたことです。このため、艦首上面は大きく膨らんだ独特の形状となっています。

U型はイギリス近海での運用を前提として建造されたが、実戦で最も活躍したのは地中海でした。特にマルタ島に配備されたU型は、ロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団の補給線を脅かし続けたのです。

U型の前期型として建造されたアップホルダーも、竣工するとすぐに艦長マルコム・ディビット・ウォンクリン少佐に率いられてマルタ島に向かったのです。1941年1月24日の最初の出撃では、商船1隻を撃沈、1隻を撃破する戦果を挙げて幸先よい初陣となったが、これに続く4回の出撃では、まったく戦果を挙げることができず、ウォンクリン艦長の能力が疑われたほどでした。

しかし、4月21日からの6回目の出撃では、商船5隻を撃沈するという大戦果を挙げて面目を取り戻しました。そしてここから、アップホルダーとウォンクリン艦長の活躍が始まったのです。


*運命の25回目の出撃

7回目の出撃でアップホルダーは、イタリア陸軍の兵士多数を乗せた大型客船を沈めました。激しい爆雷の反撃を受けましたが、ウォンクリン艦長は平然と海底に潜み、攻撃が終わるのを見越したかのように、「そろそろお茶の時間だね」と言ったそうです。

その言葉がきっかけだったかのようにイタリア海軍の爆雷攻撃が終了したため、これ以来、艦長の「お茶の時間」という言葉は、敵の攻撃の終わりを意味するようになったのです。

ウォンクリン艦長はイタリア輸送船撃沈の戦果で、第2次世界大戦の潜水艦部隊で初めて、イギリス最高の勲章であるヴィクトリア・クロスを授与されたのです。以降、アップホルダーは出撃するたびにイタリアの輸送船を沈め続け、ロンメル将軍に燃料や武器弾薬、増援の兵士が渡るのを阻み続けたのです。

マルタ島を基地とするイギリスの潜水艦部隊の戦いは過酷を極めていました。ドイツ・イタリア軍の包囲下にあったマルタ島では、あらゆる物資が不足していたうえ、連日空襲を受けるため、港内に停泊中の潜水艦は、日中は潜航していなければならない状態だったのです。

このような状況下での潜水艦の出撃は、15回程度が限界と考えられていたが、ウォンクリン艦長は20回以上出撃していました。このためマルタ島の潜水艦隊司令部は、25回目の出撃を終えたら、ウォンクリン艦長以下を帰国させて休養させることにしていた。

しかしこの休養は果たされることはありませんでした。1942年4月6日に25回目の出撃をしたアップホルダーは、帰投しなかったのです。イタリア海軍の爆雷攻撃か機雷などで沈没したのではないかとされるが、真の原因は判然としていません。

しかしアップホルダーは、輸送船129,529トン、駆逐艦、潜水艦各2隻を撃沈し、その他多数の船を撃破するという、イギリスの潜水艦隊のなかで最高の戦果を挙げたのです。


*アップホルダー、データ(新造時)

水上排水:540トン
水中排水:730トン
全長  :58.22メートル
最大幅 :4.9メートル
機関出力:ディーゼル800馬力、モーター水上時615馬力、水中時825馬力
水上最大速力:12ノット
水中最大速力:9ノット
水上航続距離:10ノット時4,050海里
水中航続距離:2.5ノット時150海里
安全潜航深度:60メートル
武装  :53.3センチ魚雷発射管6門、魚雷10本、7.6センチ単装砲1基





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2010年10月04日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ「駆逐艦、響」

*3度の損傷に耐えて戦い抜いた駆逐艦「響」

革新的な重武装駆逐艦として知られる吹雪型の1隻として建造された響は、太平洋戦争で数度の大損傷を受けたものの、その都度復活して終戦まで戦い抜いたのです。

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*軍縮条約が生んだ革新的駆逐艦

大正時代の日本海軍は、アメリカ海軍と対等に戦える戦力を保有するため、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中心とした八八艦隊計画を推進していました。当時の日本の駆逐艦は、数を揃えるため大型の1等駆逐艦と小型の2等駆逐艦の二本立てとなっていました。

この状況を変えたのが、1922年のワシントン海軍軍縮条約でした。軍縮条約で戦艦の保有量をアメリカの6割に制限された日本海軍は、この差を巡洋艦や駆逐艦などの補助艦艇で補わなければならなくなり、駆逐艦の建造計画は大きく影響を受けました。

これまでの駆逐艦が、主に戦艦の護衛と敵駆逐艦の阻止を任務としていたのに対し、新しい駆逐艦は敵戦艦部隊を雷撃で撃沈することが要求されたのです。そこで生まれたのが、特型と呼ばれる吹雪型駆逐艦だったのです。

軽巡夕張の設計補佐、藤本喜久雄造船大佐がその経験を活かして設計した吹雪の特徴は、6門の主砲と9門の魚雷発射管という、従来より5割増の重武装を持ちつつ38ノットという高速を発揮できることだったのです。しかも主砲は全て連装砲塔で、魚雷発射管は中心線上に装備されていました。

この性能を従来の駆逐艦の3割増しの排水量1,680トンという小型の船体で実現したため、吹雪型は竣工当時初め世界の海軍に衝撃を与えたのです。



*露呈した欠点

吹雪型は24隻建造されたが、そのなかでも響を含む最後の4隻は、暁型として別の型に分類されることがあります。これは機関技術の進歩により、それまで4基必要だったボイラーを3基で済ませられるようになったことと、外見にも大きな変化が生じ、ボイラーが減った分、前部煙突が細くなったからです。

準新的駆逐艦として登場した吹雪型でしたが、小型の船体に重武装を装備するため、外板をを薄くして軽量化を図った結果、船体の強度が不足していました。この無理な軽量化の弊害が露呈したのが、1,935年の第4艦隊事件でした。演習中に台風に遭遇した第4艦隊の中で、吹雪型駆逐艦2隻が大波により艦首を切断される大損傷を受けたのです。

前年の水雷艇友鶴転覆事件とともに過剰兵装による復原力不足と船体強度不足が問題とされました。この事件を受け吹雪型駆逐艦では船体の補強のほか、復原力を補うため、艦橋の小型化や船底にバラストを搭載するなどの工事が行われました。

これらの性能改善工事によって吹雪型の排水量は増大し、速力は響で35ノットに、ほかの同型艦も34ノット程度にまで低下しました。


*損傷からの復活

1,933年3月31日に竣工した響は太平洋戦争開戦時、同型艦暁、雷、電と第6駆逐隊を編成していました。開戦後しばらくは船団護衛などを行っていましたが、1,942年6月にはアリューシャン作戦で、キスカ島の攻略に参加しています。

キスカ攻略作戦中の6月12日には、アメリカ軍機の奇襲で艦首が接断される被害をうけました。これが3度に渡る響の被害のはじまりでした。

その後1,943年4月に修理を終えて艦隊に復帰した響は、7月にキスカ撤収作戦に臨みました。響はキスカ島の攻略と撤収の両方に参加することになったのです。

キスカ撤収作戦後は船団護衛や輸送作戦に従事していた響でしたが、この間に次々と同型の僚艦を失いました。1,942年11月の第3次ソロモン海戦で暁が沈められたのをはじめ、1,944年4月には雷が、5月には電がアメリカ潜水艦に撃沈されたのです。

このため第6駆逐隊は、響1隻となって解隊されたのです。しかし響は沈みませんでした。1,944年9月には潜水艦の魚雷が命中し、艦首が折れ曲がる損害を受け修理が完了してすぐの1,945年3月には、機雷に触れて航行不能となりましたが不死鳥のように蘇って戦い続け、8月15日の終戦時にも行動可能な状態で生き残っていたのです。

終戦時の響は復員輸送に従事した後、戦時賠償として1,947年7月5日にソ連に引き渡されました。その後ソ連海軍で使用され、1,963年に解体されたといわれます。響は実に竣工から30年もの長い間を生き抜いたのです。


*駆逐艦、響データ(終戦時)

基準排水量  2,090トン
全長     118メートル
最大幅    10.4メートル
機関出力   50,000馬力
最大速力   35ノット
航続距離   14ノットで5,000海里
主砲     12.7センチ連装砲2基4門
対空機銃   25ミリ3連装機銃4基、連装1基
       単装14基、計28挺
魚雷発射管  61センチ3連装3基、魚雷15本
爆雷     連装投射機1基、爆雷36発



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2010年09月15日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ(アメリカ戦艦ヴァージニア)

戦艦ヴァージニアは、1898年の米西戦争の戦訓を受け、初めて列強並みの排水量で建造されたアメリカ戦艦です。しかし戦訓に導かれて再び採用された2階建て砲塔は、失敗に終わりました。

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*米西戦争の影響

アメリカがスペインに一方的に勝利した米西戦争は、その後のアメリカ海軍の戦艦設計に大きな影響を与えました。太平洋を隔てたグアム、フィリピンにまで植民地を持つようになったアメリカは、従来のような沿岸型戦艦ではなく、太平洋全域で作戦行動ができる優れた航洋性能を持つ戦艦を必要とするようになりました。

これらを踏まえたうえ、米西戦争の戦訓を取り入れて設計されたのが、1899年度計画と1900年度計画で建造されたヴァージニア級5隻です。

ヴァージニア級戦艦の最大の特徴は、キアサージ級で失敗に終わった2階建て砲塔が再び採用されたことです。2階建て砲塔が復活したのは、米西戦争で低い位置の主砲より高い位置の20.3センチ副砲の方が有効だったためで、ヴァージニア級では20.3センチ副砲8門中4門が、主砲塔の上に載る2階建て砲塔として装備されました。

ヴァージニア級の砲塔は、キアサージ級よりも副砲を前の位置に据え、主砲に副砲の爆風がかからないように工夫されていました。また、太平洋全域が行動範囲となったことで、航洋性を向上させる必要から乾舷を高くし、さらに速力19ノットを発揮できるように機関出力を増大させました。

その結果、ヴァージニア級の排水量は、当時の列強各国の戦艦並みの14,948トンとなりました。大きさは列強レベルとなったヴァージニア級ですが、2階建ての砲塔が成功したとはいえませんでした。

なぜなら改良されたとはいえ、2階建て砲塔の照準の難しさや装填システムの複雑さ、一度に主砲と副砲が破壊される危険性といった問題は解決されていなかったからです。このため2階建て砲塔は、ヴァージニア級が最後となりました。

1906年5月7日に竣工したヴァージニアは、その年の12月にイギリスが、「ド級戦艦」という呼称を生んだドレッドノートを完成させたため、すぐに旧式艦となってしまいました。



*アメリカ戦艦初の世界周航

ヴァージニアは、1907年から約1年かけて行われたアメリカ戦艦部隊の世界周航に、主力艦として参加しました。この世界周航は、当時のセオドア・ルーズベルト大統領が、アメリカの威信を世界に知らしめるために、戦艦16隻からなる大艦隊で行ったものでした。

この時アメリカの戦艦は、全てが白く塗装されていたためグレイト・ホワイト・フリートと呼ばれました。ヴァージニアはコネチカット級に次ぐ新鋭艦として、第2分艦隊に所属していました。

1907年12月16日にアメリカ東海岸のハンプトン・ローズを出港した艦隊は、南米諸国を歴訪しながら南下し、マゼラン海峡経由で太平洋に向かいました。アメリカ海軍の大艦隊が太平洋に進出したのは、この時が初めてでした。

太平洋に出た艦隊は、サンフランシスコで若干編成を変え、ヴァージニアは第3分艦隊に所属を変更しています。ニュージーランド、オーストラリアに寄港したグレート・ホワイト・フリートは10月18日、最も威信を示したい相手である日本の横浜に寄港しました。

日本で連合艦隊の出迎えと市民の歓迎を受けた艦隊は、日米友好の演出と日本への威圧という目的を果たして25日に出港。インド洋から地中海を経由して大西洋に出た後、1909年2月22日に出発地であるハンプトン・ローズに帰還しています。

グレート・ホワイト・フリートの世界周航は、アメリカの国威を知らしめるという意味で成功を収めました。この世界周航後、ヴァージニアは1922年まで艦隊に所属した後、ワシントン海軍軍縮条約により除籍され、1923年9月5日に陸軍爆撃機の標的艦として沈められました。

グレート・ホワイト・フリートの世界周航は、ヴァージニアをはじめとするアメリカの前ド級戦艦にとって、最大の晴れ舞台となりました。ヴァージニア級の2階建て砲塔は成功しなかったものの、ここで得た経験は、アメリカ戦艦が主砲塔を前後にずらして重ねる背負い式配置を導入する際に役立ったのです。



*ヴァージニア(新造時)データ

常備排水量  14,948トン
全長     134.6メートル
最大幅    23.3メートル
機関出力   19,000馬力
最大速力   19ノット
航続距離   10ノット時3,825海里
主砲     30.5センチ連装砲2基4門
副砲     20.3センチ連装砲4基8門
       15.2センチ単装砲12基
対水雷艇砲  7.6センチ単装砲12基
       4.7センチ単装砲12基
魚雷発射管  53.3センチ発射管4門



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2010年08月28日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ「アメリカ戦艦キアサージ」

アメリカ海軍のキアサージ級戦艦は、小型の船体に最大の武装を装備するために主砲塔の上に副砲塔乗せた2階建て砲塔を採用しました。しかし小型の船体に強力な武装を可能にすると思われたこの設計は、実用的ではありませんでした。

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*小型重武装戦艦の要求

19世紀末のアメリカ海軍は、依然、航洋性の低い沿岸防御用の戦艦を建造していました。当時のアメリカ戦艦が、基本的に沿岸防御を任務とし、航洋性を重視していなかったことと、議会が海軍予算を抑えたことにより、それ以上の戦艦を建造することができなかったのです。

しかしアメリカ海軍は、他国の戦艦に負けない重武装と重防備の戦艦の必要に迫られていました。苦肉の策として考えられたのが、戦闘力があり、しかも安く建造できる戦艦として1895年度計画に入れられたキアサージ級2隻だったのです。


*2階建て砲塔

キアサージ級の最大の特徴は、33センチ主砲塔の上に、20.3センチ副砲塔が乗った2階建て砲塔です。2階建て砲塔が採用された理由は、副砲の数を減らしても舷側方向への火力を落とさないためでした。

この結果20.3センチ副砲がインディアナ級の連装4基8門から2基4門に減少したにもかかわらず、全てを中心線上に配置されたため、舷側方向に向けられる門数は同等の4門だったのです。キアサージ級は副砲の数を減らして空いたスペースに、15.2センチ砲14門を装備することができました。

装甲も従来の戦艦では主砲塔の間の水平部にしか張られていなかったものが艦首まで延長され、舷側上部にも張られるように改善されました。またキアサージ級は主砲塔の動力が電動式となった最初のアメリカ戦艦でもあったのです。

こうした特徴を持ってましたが、キアサージ級は従来と同じ速力の遅い沿岸防御用戦艦でした。しかも画期的な新機軸として導入した2階建て砲塔は、下部の33センチ主砲塔と上部の20.3センチ副砲塔が固定されていたため、同一方向にしか向けられず、主砲と副砲を別の目標に向けることができなかったのです。

また2階建て砲塔は主砲塔の中に副砲塔の揚弾頭が通っていたため、砲弾を砲塔まで上げる揚弾装置が複雑なものとなりました。この結果、主砲と副砲の発射速度が大幅に低下してしまいました。

しかも同一の目標に射程の異なる砲を向けるため、照準や弾着観測が困難になったうえ、主砲塔は副砲の爆風にさらされることになりました。さらに1発の命中弾で主砲と副砲が同時に破壊される危険もありました。

*クレーン船へ改造

戦艦の生命である主砲塔の設計が失敗であったにもかかわらず、キアサージの生涯は長いものでした。1900年2月20日に竣工したキアサージは、艦隊に編入されたものの平和な時代だったため、目立った行動はありませんでした。

砲塔の爆発事故を起こしたため1906年キューバ動乱に参加せず、1907年から1909年にかけて行われたアメリカ艦隊の世界周航に参加したのを除くと、ほとんど活動しなかったのです。そのままいけば1922年ワシントン海軍軍縮条約で解体されるはずだったキアサージでしたが、1920年に武装を撤去し250トンクレーン1基を乗せたクレーン船に改造されたのです。

クレーン船となったキアサージは重量物の吊り上げ能力を活かして新造艦の砲塔や装甲鈑の取り付け工事に従事しました。また事故で沈没した潜水艦スコーラスの引き揚げも行っています。

クレーン船として生き残ったキアサージは1941年にクレーン船第1号と改名された後も活動を続け、最終的に除籍されたのは、第2次世界大戦終結から10年もたった1955年のことでした。キアサージは戦艦としてよりも、クレーン船として過ごした時間の方が長かったのです。

*キアサージ(新造時)データ

常備排水量  11,540トン
全長      114.5メートル
最大幅     22メートル
機関出力   10,000馬力
最大速力   15ノット
航続距離   10ノット時5,070海里
主砲      33センチ連装砲2基4門
副砲      20.3センチ連装砲2基4門
         15.2センチ単装砲14基
対水雷艇砲  5.7センチ単装砲20基
魚雷発射管  45センチ発射管4門


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2010年08月01日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ「軽巡夕張」

「軽巡洋艦夕張」

3,000トンに満たない船体で、5,000トン級の1等巡洋艦に匹敵する戦闘力を持っていた軽巡洋艦夕張は竣工当時、革新的な巡洋艦として世界の海軍に衝撃を与えました。目覚しい戦果こそなかったものの、夕張はその後の日本の巡洋艦設計の基礎となっています。

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*財政を圧迫する八八艦隊計画

大正時代の日本海軍は、戦艦8隻、巡洋艦8隻を主力とするいわゆる八八艦隊計画を立てていました。この計画では軽巡洋艦や駆逐艦も多数建造することになっていましたが、その厖大な建造費が日本の財政を圧迫したのでした。

このままでは予算不足で計画が遅れるだけでなく、達成できないことさえ考えられた為、海軍は建造費を低減させる方策を模索しました。しかし戦艦や駆逐艦はすでに建造途中であり、建造費を抑えることができなかったので、巡洋艦を小型化することになりました。

この小型巡洋艦建造を提案したのは、後に重巡古鷹を設計した平賀譲造船大佐です。平賀大佐は、当時建造されていた球磨型軽巡が排水量5,100トンなのに対して、排水量約3,000トンで同等の戦闘力を持たせることができると提案したのです。

平賀大佐の計算では、八八艦隊計画で建造予定の球磨型軽巡13隻を全て小型軽巡にすれば、戦艦1隻分の予算を節約できるはずでした。海軍はこの提案を受け入れ、1917年度計画で建造予定だった軽巡9隻のうち1隻を2,890トンの小型軽巡とすることにしたのです。

*5,000トン級の戦闘力の秘密

実験艦のような形で建造された夕張には、各所に革新的な設計が盛り込まれていました。外見上最も目立つのは、武装の配置と煙突の形状です。

球磨型が7門の14センチ砲を艦全体に装備し、舷側方向には6門しか向けられなかったのに対し、夕張は艦の前後部の中心線上に14センチ単装砲と連装砲を1基ずつ、背負式に装備していたので、全砲を舷側方向に向けられました。

この日本の軽巡では初めての試みにより、夕張は球磨型より主砲が1門少なく、魚雷発射管が半分なのにもかかわらず、舷側方向に向けられる門数は同等となったのです。また魚雷発射管も、球磨型が連装発射管4基を舷側に2基ずつ装備していたのに対し、夕張は連装発射管を艦の中心線上に2基装備していました。

このように、夕張が2,890トンの排水量で5,100トンの球磨型と同等の戦闘力を持つことができた秘密は、船体の基本設計を駆逐艦式として軽量化を図っていたことにあります。外見上のもう一つの特徴が、世界初となった誘導煙突でした。

従来の軍艦では煙突が缶室の真上に垂直に立っていたのに対して、夕張は前部煙突が缶室から大きく後方に傾斜し、後部煙突と合体した独特の形となっています。この誘導煙突は艦橋が缶室の真上に来てしまったために考えられたもので、設計を補佐した藤本喜久雄造船少佐の提案でした。

以後誘導煙突は日本の巡洋艦の特徴となりました。大和に採用された後方に傾斜した誘導煙突も、夕張から始まったのです。しかし大きく傾斜させたにもかかわらず排煙が艦橋に逆流したため、完成後には煙突を約2メートル高くする改造が行われています。

*世界の海軍が驚愕

革新的軽巡として完成した夕張でしたが、ワシントン海軍軍縮条約によって日本海軍が小型軽巡よりも重巡を重視するようになったため、同型艦は建造されませんでした。これには、建造費を抑えるために小型化された船体では、新しく開発された装備を追加搭載することができないという問題も関連しています。

太平洋戦争で夕張は、第6水雷戦隊旗艦として開戦時のウェーク島攻略戦を皮切りに、珊瑚海海戦や第1次ソロモン海戦などに参加した後、輸送船団の護衛や陸軍の輸送などを行いました。この間に、主砲2門を撤去して高角砲や機銃を増備するなどの改造を受けています。

改造後も護衛任務に従事していたが、1944年4月27日輸送作戦の帰路、アメリカ潜水艦ブルーギルの雷撃を受けて沈没しました。夕張は目立った戦果を挙げることはありませんでしたが、出現当時に革新的巡洋艦として世界の海軍を驚愕させたのです。

*夕張(新造時)データ

基準排水量 2,890トン
全長     132.9メートル
最大幅    12メートル
機関出力  57,900馬力
最大速力  34.8ノット
航続距離  14ノット時5,000海里
主砲     14センチ単装砲2基、連装砲2基、計6門
高角砲    8センチ単装砲1基
魚雷発射管 61センチ連装2基4門   


*太平洋戦争関連書物



*ゲーム

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2010年07月16日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ「アメリカ空母サラトガ」

「空母サラトガ」

アメリカ海軍が初めて保有した近代空母です。ワシントン海軍軍縮条約の影響で巡洋艦から空母に生まれ変わったサラトガは、第2次世界大戦前における世界最大の空母でした。

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*巡洋艦から大型空母に

1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約は、アメリカ海軍の空母建造に大きな影響を与えました。条約により建造中の戦艦は全て廃棄されることとなりましたが、そのうちの2隻を空母として保有することが許可されたうえに、空母の排水制限は27,000トンだったにもかかわらず、特例として33,000トンまで認められたのです。

アメリカ海軍は条約に従い、建造中だったレキシントン級巡洋戦艦のうち、レキシントンとサラトガの2隻を空母として完成させることにしました。レキシントン級巡洋戦艦は、40.6センチ砲8門を装備する40,000トン以上の巨体を持ち、16基のボイラーを持つ180,000馬力のターボ電気推進機関により、34ノットの速度が出せました。大きな馬力を持っていたため煙突は巨大で、これがレキシントン級の特徴となっています。

1927年11月16日に完成したサラトガは、僚艦レキシントンとともにアメリカ空母部隊の主力となりました。当時、世界最大の空母だったレキシントン級は、日本の赤城、加賀とともに世界の4大空母と呼ばれました。

サラトガは一段全通式飛行甲板の右舷中央部に煙突と艦橋があり、飛行甲板前端まで船体外板が続くという形態を持っていました。赤城、加賀やイギリスのカレイジャス級が多段飛行甲板であったのに比べると、非常に進んだ設計です。


*戦時中の改造と不本意な戦績

サラトガは1941年に太平洋戦争が始まるまで、対空機銃を若干追加装備した以外ほとんど改造を受けませんでした。しかし開戦直後1942年1月11日、ハワイ沖で日本の潜水艦、伊6の魚雷を受けて損傷したのを機に、思い切った改造を行うこととなりました。

飛行甲板前部は、船体の形に沿って艦首方向に狭くなっており、実用性に難があったので、前端まで幅の広い形に改められました。また、使用する機会がないと判断された20・3センチ連装砲は、12.7センチ連装高角砲と換装されました。他にも12.7センチ高角砲8門、40ミリ4連装機銃9基、20ミリ単装機銃30基が装備され、対空兵装が飛躍的に増強されたのです。

このために、5月の珊瑚海海戦と6月のミッドウェイ海戦に参加できなかったサラトガは、8月になってソロモン方面の出動したものの、第2次ソロモン海戦直後の31日には、またしても日本の潜水艦、伊26の魚雷を受けてしまいました。しかもこの時には、電気回路がショートしたため、一時的に航行不能となっています。

こうして再び修理をすることになったサラトガは、アメリカ海軍が苦戦した1942年の大半を、修理のためにドッグ内で過ごしました。サラトガが修理を終えて戦列に復帰したころには、新型空母エセックス級が続々と完成し始めていたのです。


*原爆実験の標的艦

修理を終えたサラトガは、当初こそ主力空母として活動したが、エセックス級の数が揃い始めるとインド洋に回され、イギリス東洋艦隊とともに行動しました。一時、アメリカ本土で練習空母となったが、その後夜間航空隊専用の実戦空母として、1945年2月の硫黄島攻略作戦に参加しています。

この作戦が、サラトガの最後の戦いとなりました。2月21日夕方、日本軍の特攻機に突入されて大破したサラトガは、修理された後にも戦列に戻ることはなく、再び練習空母となりました。そして戦後間もなく最後を迎えたのです。

1946年にビキニ環礁で行われた原爆実験で、サラトガは日本の戦艦長門などとともに標的艦として使用され、7月1日の空中爆発実験では大きな被害を受けなかったものの、25日の水中爆発実験で大破して沈没しました。

サラトガは太平洋では、目立った活躍をすることができませんでしたが、アメリカ近代空母の設計の基本は、レキシントンとサラトガによって確立されたのです。


*サラトガ最終時データ

基準排水量 36,000トン
全長     277.2メートル
最大幅    39.7メートル
機関出力  180,000馬力
最大速力  32ノット
航続距離  15ノット時9,500海里
搭載機    固有搭載機無し、硫黄島攻略作戦時、戦闘機57機、雷撃機18機
高角砲    12.7センチ連装高角砲4基、単装4基、計12門
対空機銃  40ミリ4連装機銃23基、連装2基、計96挺、20ミリ単装機銃16基


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2010年07月06日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ「駆逐艦夕立」

「駆逐艦夕立」

ロンドン海軍軍縮条約の制限下で建造された白露型駆逐艦の4番艦です。1942年11月第3次ソロモン海戦に参加した夕立は、単独でアメリカ艦隊に突撃し、敵を混乱させたことで知られています。

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*軍縮条約下の駆逐艦建造

1930年のロンドン海軍軍縮条約は、日本海軍の駆逐艦建造に多大な影響を与えました。1922年ワシントン海軍軍縮条約で戦艦の保有量をアメリカの6割に制限されていた日本は、さらにロンドン条約で、戦艦の不足分を補うべき巡洋艦と駆逐艦の保有量及び排水量も制限されてしましました。

日本海軍はこれを受けて、小型の船体に重武装を施した初春型駆逐艦12隻の建造を計画しました。しかし初春型は、完成直後から復元性に問題が発生したのです。

1934年水雷艇夕鶴の転覆事故により、日本海軍は初春型の建造を6隻で打ち切り、残りは設計を改めまったく別の駆逐艦として建造することにしたのです。それが白露型でした。


*白露型の建造

日本海軍はロンドン条約明けを見越して、白露型を新設計の大型駆逐艦として建造することも可能でした。しかしすでに機関などの機材は初春型タイプとして建造が始められていたため、その改良型の小型駆逐艦として建造されることになったのです。

復元性もさることながら、白露型と初春型の最大の違いは、魚雷兵装です。初春型が3連装発射管を使用し、8門以上装備するには3基装備する必要があったのに対し、白露型は4連装発射管のため、2基の搭載で済みました。この後、日本の駆逐艦は4連装発射管2基が標準装備となりました。

こうして白露型の建造が開始されたが、その直後に船体強度に問題があることが判明し、さらに船体強度を補強する改造が追加されました。白露型は機関が初春型と同じだったため、速力は34ノットという性能に留まったが、初春型で生じた不具合を解消した駆逐艦となりました。


*第3次ソロモン海戦での活躍

1937年1月7日佐世保海軍工廠で完成した夕立は、太平洋戦争海戦前に魚雷を酸素魚雷に改めました。第4水雷戦隊に所属して1942年3月のスラバヤ沖海戦に参加し、続いてインド洋などで作戦を遂行した後、8月からはソロモン方面で行動していました。

9月4日にガダルカナル島への兵員輸送を行っていた夕立は、味方駆逐艦2隻と共に揚陸作戦に加わり、終了後にアメリカ軍飛行場を砲撃し、さらに駆逐艦を改造した高速輸送船2隻を発見して、これを撃沈しました。この続けざまの戦果は、勇猛果敢で知られる夕立艦長吉川潔中佐ならではのものでした。

こうしてガダルカナル島への輸送作戦を6回遂行した夕立は、11月12日、ガダルカナル島を砲撃しようとする日本戦艦部隊の護衛として前方警戒を行っていました。この時、日本戦艦の接近を察知したアメリカ海軍は、艦隊を出撃させて待ち構えていたのです。

日米両艦隊は深夜の狭い海域で激しい戦闘を行ったが、最初にアメリカ艦隊を発見した夕立は、味方に報告すると同時に単独で突撃し、相手に混乱を生じさせました。そればかりでなく、アメリカ軽巡アトランタを撃沈し、さらに駆逐艦を1隻撃沈、2隻撃破の大戦果を挙げたのです。

夕立の突撃で不意をつかれたところに本体の攻撃を受け、混乱しきったまま戦うことになったアメリカ艦隊は、結局、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を失うこととなりました。アメリカ艦隊に大きなダメージを与えた夕立だったが、この戦闘によって航行不能となり、やむなく吉川艦長は総員退艦を命じ、乗員が駆逐艦五月雨に移乗した後に沈没しました。

しかしこの海戦の殊勲艦は夕立であり、駆逐艦の夜戦でその真髄を発揮したのです。


夕立(新造時)データ

基準排水量 1,685トン
全長     110メートル
最大幅    9.9メートル
機関出力  42,000馬力
最大速力  34ノット
航続距離  18ノット時4,000海里
主砲     12.7センチ連装砲2基、単装砲1基、計5問
対空機銃  40ミリ単装機銃2基
魚雷発射管 61センチ4連2基、魚雷16本
        投下台2基、爆雷36発


*太平洋戦争関連DVD



「NHKは何を伝えてきたか」シリーズ第3弾!
NHK特集・NHKスペシャルの名作をDVDでリリースする「NHKは何を伝えてきたか」シリーズ。
「ドキュメント太平洋戦争」は、その完成度とインパクトの強さからシリーズをめぐって様々な意見が寄せられ、単に50年前の戦場での問題ということを越えて、今日の私たち日本人に多くのことを問いかけた。インパール作戦の裏でどの様なことがあったのか追った「第4集 責任なき戦場」は、文化庁芸術作品賞を受賞し、改めて内外からの評価の高さを示した。




内容(「キネマ旬報社」データベースより)
日本の真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争を、アメリカ軍が撮影した貴重な映像で綴る戦争ドキュメンタリーのBOX。1941年12月8日の開戦から4年に渡る太平洋戦争史を、「太陽の帝国」「硫黄島に立てた星条旗」ほか、13のエピソードで紐解いていく。
内容(「Oricon」データベースより)
真珠湾攻撃から硫黄島、そして沖縄戦まで13の激戦をアメリカ軍が撮影した映像で綴るドキュメンタリー作品。

posted by シン軍曹 at 21:36| Comment(1) | TrackBack(0) | 駆逐艦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月27日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ「防空駆逐艦秋月」

「新造防空駆逐艦秋月」

世界で初めて建造された空母部隊直衛用の防空駆逐艦です。新型高角砲を装備した秋月は実戦で使用され、連合国軍の航空部隊から要注意の艦としてマークされました。

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*空母を守る駆逐艦

1930年代に入って航空機が発達するにつれ、各国海軍では敵の航空攻撃から戦艦や空母などの主力艦をいかにして守るか大きな問題となり、対空火力の増強がなされてきました。

特に空母は、広い飛行甲板に爆弾が1発命中しただけで、艦載機の発着ができなくなる危険があるため、敵機に対する対策は重要だったのです。ここから生まれたのが、空母部隊直衛用に専用の防空艦を建造するという構想だったのです。

当初は旧式巡洋艦を改造して高角砲を多数搭載し、防空巡洋艦とする計画もありましたが、新規設計の駆逐艦のほうが効率的だと考えられ、新規建造となったのです。防空巡洋艦を建造することも検討されましたが、建造費の点から見送られ、駆逐艦の数を多くすることになりました。

こうして第四次海軍軍備充実計画で建造されたのが、秋月型駆逐艦なのです。秋月型は日本海軍初の本格的な防空駆逐艦でもありました。


*高性能高射砲

秋月は当初、空母部隊の直衛用として対空戦闘を主目的とし、魚雷発射管を持たない設計とされていました。艦政本部の当初の要求は、速力35ノット、航続距離18ノットで10,000海里となっていたため、駆逐艦とはいえ4,000トン近い設計となりました。

当然、建造費もかさむことになり、数を揃えることができないため、速力と航続距離の要求が緩和されました。こうして秋月は、連装4基8門の新型高角砲を装備した強力な防空駆逐艦として建造されることになりましたが、通常の駆逐艦としても使いたいという要求が出たため、魚雷発射管も装備されることになり、結局2,700トンの大型駆逐艦として誕生したのです。

秋月型の目玉は、新規に開発された九八式10センチ連装高角砲の装備です。この高角砲は、長10センチ砲とも呼ばれ、これまでの12.7センチ砲が40口径だったのに対し、65口径と砲身が長く、最大射程距離、射高ともに、これまでの高角砲を大きく上回っていました。

九八式10センチ高角砲の最大射高は、14,700メートルに達し、最大射程距離19,500メートル、発射速度は毎分19発の性能を持っていました。この性能は第2次世界大戦中の各国高角砲のなかでもトップクラスであり、特に射程距離と射高は世界最高だったといっていいでしょう。

しかし、この高角砲を指揮する高射装置を前後部に装備する予定のところを、実際には艦橋上の1基しか装備しなかったために、本領発揮できなかったといわれています。


*侮れない防空艦

新しく編成した空母機動部隊の護衛艦となるべく秋月が竣工したのは、ミッドウエイ海戦直後の1942年6月13日でした。竣工した秋月は訓練航海を終えると早速、激戦が続いていたソロモン諸島に送られ、再編された空母部隊の第3艦隊に配備されました。

9月29日には泊地で爆撃を受けたが無事に回避し、1機を撃墜しています。この時に撮影された写真を解析したアメリカ軍は、秋月が侮れない防空艦だと判断し、航空部隊に警報を発したといわれています。

1943年1月18日、秋月は潜水艦の雷撃を受けたが、沈没をまぬがれて、内地に向かいました。しかし、その途中でキールが折れてしまい、サイパンで艦橋を含む船体前部を切り離し、応急処置を施して後部だけで帰投しました。

三菱長崎造船所で、建造中だった同型艦霜月の艦首を結合し、併せて機銃の増強とレーダーの装備を行った秋月は、再び空母の護衛艦として任務についたが、1944年6月のマリアナ沖海戦で、護衛していた空母大鳳を潜水艦に沈められてしまいました。

秋月はその後さらに機銃を増強し、1944年10月のレイテ沖海戦で空母瑞鶴を護衛しました。一説に、この海戦で対空戦闘中に魚雷発射管に爆弾を受け、誘爆によって沈没したとされています。

それが事実なら、計画時に追加された魚雷発射管が仇となったことになります。太平洋戦争半ばから空母部隊を守った秋月は、空母直衛用の防空艦という先進的な構想から生まれた駆逐艦としてその名を残しています。

*秋月(最終時)データ

基準排水量 2,701トン
全長     134.2メートル
最大幅    11.6メートル
機関出力  52,000馬力
最大速力  33ノット
航続距離  18ノットで8,000海里
主砲     長10センチ連装高角砲4基8門
対空機銃  25ミリ3連装機銃5基、単装7基
        計22挺(他に単装据付座7基)
魚雷発射管 61センチ4連装1基 魚雷8本
爆雷     投射機2基、投下軌条2基 爆雷54発


*様々な艦船模型







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2010年06月18日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ「戦艦ウエスト・ヴァージニア」

アメリカの戦艦ウエスト・ヴァージニアは40.6a砲を搭載したコロラド級の戦艦です。日本の真珠湾攻撃により大破したものの、後に復活してレイテ沖海戦で西村艦隊を全滅させました。

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*日本に対抗した主砲

アメリカは、太平洋を挟んで対峙する日本を仮想敵国とした軍備計画を立てていました。特に第1次大戦が終わるころから、日本を最大の脅威と考えるようになりました。こうした背景のもとに1916年、アメリカ海軍が議会に提出したのが、戦艦10隻、巡洋艦6隻を中心とする大艦隊を3年度計画で建造する建造計画です。

3年度計画もしくは計画当時の海軍長官の名前からダニエル・プランとも呼ばれるこの計画で、第1陣として建造されたのが、コロラド級戦艦だったのです。コロラド級戦艦は、従来のテネシー級の発展型として設計されました。

テネシー級では、35.6a3連装砲4基だった主砲が、コロラド級では40.6a連装砲4基に変更されたが、これは当時建造中だった日本の長門型戦艦が、40.6a砲(実際は41a)を装備していることが判明したからです。こうしてコロラド級は、アメリカ海軍初の40.6a砲を搭載した戦艦として誕生しました。


*軍縮条約による建造の危機

1922年のワシントン海軍軍縮条約によって、建造中であったウエスト・ヴァージニアは解体処分になりかけました。しかし日本に戦艦陸奥を保有することを認める代わりに、アメリカは未完成のコロラド級の3隻の内、2隻を完成させることが認められました。本来は最も工事の進んでいなかったウエスト・ヴァージニアが解体されるところでしたが、計画全体を調整するためにそのまま建造が進められました。

1923年12月1日に完成したウエスト・ヴァージニアは、日本海軍に対抗するため、ほかのコロラド級戦艦とともに太平洋艦隊に配備され、1941年12月8日真珠湾攻撃を迎えました。日本軍の奇襲により、7本の魚雷と2発の爆弾を受けて大破し、着低したが、真珠湾は水深が浅いため、最悪の事態は免れました。

翌1942年5月に引き揚げられ、応急修理を受けた後、アメリカ本土に回航されて本格的な修理を受けることになりました。


*新型レーダーの搭載

真珠湾攻撃で受けた損傷を修理の際に、ウエスト・ヴァージニアは徹底的な近代化改造が施されました。主砲と機関は新造時のままでしたが、その他の武装は一新され、副砲と高角砲は全て新型戦艦で採用されていた12.7a連装高角砲に換装されました。

さらに、アメリカ戦艦の特徴だった籠マストと煙突は撤去されて、新型戦艦のようなデザインの艦橋と煙突が装備されました。また、最新型の射撃指揮レーダ−と新型射撃指揮装置も装備されました。

特にレーダーは、最新型のマーク8が採用されました。このとき装備された最新型レーダーが、後の実戦で威力を見せ付けたのです。新型レーダーが真価を発揮したのは、復帰後始めての戦闘となった10月のレイテ沖海戦でした。

上陸支援を主任務とする第7艦隊の戦艦部隊に加わったウエスト・ヴァージニアは、カリフォルニア、テネシーとともに、スリガオ海峡で西村艦隊に、対してレーダーを駆使した猛射撃を浴びせたのです。これは、レーダーが最新型でない同型のメリーランドが、数回しか主砲を撃てなかったのと比べると、大きな違いでした。

この海戦でウエスト・ヴァージニアは、旧式戦艦でもレーダーを駆使すれば、新型戦艦並みの戦いができることを証明したのです。その後、硫黄島や沖縄で上陸支援などの任務を行った同艦は、1947年1月9日に退役し、1959年に除籍解体されました。


ウエスト・ヴァージニア(レイテ沖開戦時)

基準排水量 32,500トン
全長     190.2メートル
最大幅    32.92メートル
機関出力   28,900馬力
最大速力   20.5ノット
航続距離   10ノット時21,100海里
主砲      40.6a連装砲4基8門
高角砲    12.7a連装砲8基16問
対空機銃   40ミリ4連装機銃10基、連装機銃2基、計44挺、20ミリ単装機銃57挺



*様々な艦船模型







posted by シン軍曹 at 23:21| アメリカ戦艦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月27日

太平洋戦争時代の様々なウォーシップ「空母飛龍」

「空母飛龍」

空母飛龍は準同型艦の蒼龍と共に、日本海軍の空母建造技術を結実させた艦です。蒼龍と飛龍で確立された技術は、その後の日本空母の建造に活かされました。特に飛龍は、ミッドウェイ海戦での奮闘で有名です。

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*日本の空母建造

日本海軍初の空母、鳳翔が1922年に完成して以後、日本空母が大きく発達するきっかけとなったのが、1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約です。

同条約により日本海軍は、本来廃艦となるはずだった建造中の戦艦加賀と巡洋戦艦赤城の設計を変更し、空母として完成させました。

これまで排水量7,470dの小型空母鳳翔1隻しか保有していなかった日本海軍が、一気に26,900dの大型空母2隻を保有することになったのです。

しかし、加賀、赤城に次いで建造された小型空母龍驤は、小型過ぎて失敗しました。しかも鳳翔、赤城、加賀、龍驤の4隻で軍縮条約の建造枠81,000dの大半を使ってしまったため、残る枠は12,630dとなったのです。


*理想的な中型空母

軍縮条約に決められた残りの排水量では、中型空母1隻しか建造できなかったが、旧式の鳳翔については1938年以降に代艦を完成させることが認められていたので、現実には20,100dの建造枠がありました。そこで空母2隻を建造しようと計画されたのが、蒼龍と飛龍です。

当初の建造計画では、排水量10,050dで20a砲6門を装備し、航空機100機を搭載するという欲張ったものでした。さすがにこの設計は改められたが、それでも15.5a砲5門と70機の搭載機という重武装の計画でした。

そうした折、水雷艇友鶴が嵐に遭って転覆する事故が起きました。この転覆は、小型の船体に無理な重武装をしたため、復元性能が不足したことが原因でした。友鶴事件の調査結果を受けて設計を変更したため、蒼龍型の建造は1年遅れ、2番艦飛龍の完成は条約明けに延びてしまいました。このため、蒼龍は制限枠を1隻で使えることになり、排水量15,900dと余裕を持った設計の中型空母となりました。

続いて条約明けに建造されることになった飛龍は、排水量17,300dと、さらに大型化しました。艦首の甲板を一段高くして凌波性を向上させたほか、飛行甲板の幅を1b増やすために船体幅を0.8b広げています。

飛龍の最大の特徴は、艦橋の位置でした。ほかの日本空母の艦橋が右舷前部にあるのに対し、飛龍は左舷中程にあります。

これは搭載機を発艦させる際に、艦橋ができるだけ後方にあったほうが良いと思われたからです。しかしこの艦橋配置は、発艦機にそれほどの効果はなく、逆に艦橋が起こす気流が着艦の際に悪影響を及ぼしました。

結局左舷中央の艦橋は、飛龍のほかには赤城にしか採用されていません。しかし飛龍は、艦橋配置を除けば理想的な中型空母だったのです。このため、太平洋戦争中に空母を急造することになった際には、艦橋配置を改めた飛龍の設計がベースとなりました。


*ミッドウェイでの奮闘

1939年7月に完成した飛龍は、蒼龍と共に第2航空戦隊を編制しました。この第2航空戦隊の搭乗員は、開戦直前に編制された第1航空艦隊のなかでも最精鋭といわれる練度を誇っていました。

飛龍が最大の活躍をしたのは、ミッドウェイ海戦でした。第2航空戦隊指令官山口多聞少将の旗艦として出撃した飛龍は、赤城、加賀、蒼龍がアメリカ爆撃機の攻撃を受けて大破した後も、単独で反撃を行いました。

飛龍の航空隊はアメリカ艦隊に対して2度に渡って攻撃を行い、アメリカの空母ヨークタウンを撃破しました。しかし孤軍奮闘した飛龍も、艦載機の攻撃を受けて航行不能となり、ついに味方駆逐艦の魚雷で処分されたのです。

敗れたとはいえ、飛龍の奮闘は、最新鋭をうたわれた第2航空戦隊の面目躍如たるものでした。理想的な中型空母として建造された飛龍は、実戦で充分に活躍したのです。

「空母飛龍」最終時

基準排水量 17,300d

全長     227.35b

最大幅    22.32b

機関出力  153,000馬力

最大速力  34.59ノット

航続距離  18ノット時 7,670海里

搭載機   戦闘機18機、爆撃機18機、攻撃機18機

武装    12.7a連装高角砲6基12門、25_3連装機銃7基、連装5基、計31挺








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*様々な艦船模型





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タグ:飛龍 空母
posted by シン軍曹 at 20:14| 空母 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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